病気発覚〜完治に至るまでのエピソード
皆さん、
おはようございます
こんにちは
こんばんは
goutablogのgoutaです!!
写真は全く内容とは関係ありません。笑
いつもgoutablogを見ていただいてありがとうございます!!
今回は僕が1番最初に投稿したエピソード
↓↓↓↓
https://goutablog.hatenablog.com/entry/2019/12/17/221653
にも書いた病気ついて語っていきたいと思います。
(まだ見てない方はぜひみてください。僕がこのbolgを始めるにあたって皆に伝えたいこと、表現したいことを書いています。まずは僕自身がどういった人間なのかを説明する必要があるかなと思い今回も書いています)
今一度軽く説明すると、
中学2年生の夏に
「ユーイング肉腫」(腎臓がん)(小児がん)にかかりました。
※転移性のもので肺にも転移。そこから約1年半間、手術や放射線治療、抗がん剤治療など様々な治療をしてきました。
その中で自分が思うこと。
皆さんに向けて伝えたいこと。
を今回は書いていきたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
14歳の夏、部活中に背中に強い鈍痛がはしりました。
最初は痛くなっては止み、痛くなっては止みの繰り返しでした。
数日痛い。なんてこともありましたが、部活もしていたこともあり、
「筋肉痛かなぁ」くらいの気持ちで数日過ごしていました。
ところがある日、男性で正常ではありえない「血尿」がでたのです。
ですが、思春期ということもありすぐ親には伝えることができませんでした。
とある日、尿と一緒に血の塊が出てくることあり、その塊が尿管に
つまり、尿が排泄することができないとともに今まで味わったことのない
痛みに襲われました。
これはさすがにまずいと思い、親に伝えました。
その後すぐ病院へ行き、ユーイング肉腫であることを明かされました。
当時の僕には、「がん」であることは伝えられてはなく、
緊急検査、緊急入院という形でした。
そこから、約1年半にも渡る病気との闘いがはじまりました。
- 病気(ユーイング肉腫)発覚当時
当時の僕は、数日のうちに発覚〜入院までが秒すぎて
何がなんだか正直わかっていませんでした。
「入院して手術してすぐ帰れるだろう」とおもっていました。
数日後、主治医の先生から手術のあとにも長期的な治療をしていかなくては
ならないことを明かされました。と同時に僕の両親の目が涙ぐんでいたのを
覚えています。そこで14歳ながらも大きな病気にかかってしまったのだと理解しました。
学校にも行けず、友達とも遊べず、家にも帰れず、だたひたすらベットの上での
生活。が始まりました。毎日毎日何をするにも一人でつまらなかったのを
覚えています。
- 手術→治療→退院にいたるまで
いざ、手術日当日。朝からの手術で、
手術時間16時間の術後4日間、ぼくは目を覚まさなかったとのこと。
目が覚めた時に、強い薬使っていたのでしょう、
激しい吐き気と幾度となる幻覚、幻聴症状に見舞われました。
一番怖かったのは、幻覚症状で
・親の顔がどんどん違う人に変わってしまう。
・呼吸器を付けていたのですが、その呼吸器のクダから
表現が難しいですが、(もののけ姫の最初の方に出てくる化け物みたいなものの周りをまとっているうにょうにょしているやつ,,,,,伝わりますか?笑)
がクダを使って自分の中に入ってくる
・部屋の隅、天井全体に大量の蜘蛛
・一人部屋の扉前にだれかがずっといる。
(扉が半透明みたいな仕様でシルエットだけがずっと見えている感じ)
この4つに関しては今でも鮮明に覚えています。
それ以外は手術後の傷のはげしい痛みで正直覚えていません。
ですがその辛い時にひとつだけ覚えているのが
母親がぼくの横に寄り添って看病してくれている時
母親に背中をさすられた瞬間、目の前が真っ白になり
父親と母親と僕でどこか知らない場所(海外チックな所でした)に
旅行行っているのが見えたんですよね。
今となっては未来が見えていたのかなと思います。
(記憶に残っているのに運命を感じ、その未来を実現したいと密かに思っています😌)
そこから、ある程度回復し歩けるようになった辺りから
抗がん剤での治療がスタートしました。
想像以上の辛さだったのを覚えています。
副作用で毛という毛が抜けてしまうのを始め
吐き気や食欲不振、味覚変化など様々でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
治療の合間、元気で出歩けれるタイミングで家族と病院内を散歩することや
共有スペースでトランプや会話をするのが唯一の楽しみでした。毎日面会に来てくれていた母親。仕事が休みの土日に毎週来てくれていた父親。学校や予定の合間をぬって頻繁に来てくれていた2人の姉には感謝してもしきれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
また抗がん剤治療ともう一つ、
陽子線治療というものも行っていました。
陽子線治療は茨城の大学病院で行っていました。
陽子線治療は約半年ほどで終了し、埼玉の病院に戻ってきました。
病院では院内学級というものもあり、入院中の子供たちに
学校で学ぶような教科を教えてくれる先生もいました。
治療や院内学級での勉強、家族たちに支えられながらも今思えば長いようであっという間の1年半でした。
最後の抗がん剤治療が終了した時は表現できないくらいの嬉しさでした。
やっと普通の人と同じ生活ができる。
これからの人生頑張るぞ!と心に決めた1日でもありました。
諦めなければ必ず希望はある。
我慢強く耐えた先には希望が見える。
と思いました。
1年半も入院していたので、いざ学校に通い始めてもすぐ疲れてしまう。という毎日でした。体力を戻すのが一番大変でした。高校時には陸上部に所属し長距離をやっていました。はじめは女子より走るのが遅かったのを覚えています(笑)ですが、最終的に3年の引退時では、主将ではないものの副主将として、チーム1の持久力を手に入れ、
高校駅伝があるのですが、華の1区を走らせて頂きました。これも毎日コツコツ努力した結果だと思います。このエピソードもいつか書きたいですね^ ^
はい!
というような形で完治することができ、今の今まで、再発もなく生きてこれています。
全てを語ると相当長くなってしまうと思うので今回はここまでにします。
再発と隣り合わせな分、より一層健康面には意識し限られた命精一杯楽しく生きていきたいと思います。
もう少しで2019年も終わりますね。
1年早いですな〜
今年はどんな1年でしたか?
素敵な1年になりましたでしょうか?!
そうなっていることを祈ります!
本日も最後まで見て頂きありがとうございました!
今日は皆様に感謝です。
gouta